第1回市民公開講座 「現代の歯科医療が目指すもの 治療から予防へ」
  
3 脳と咬み合わせ  窪田歯科医院 窪田裕一

本文へジャンプ 2007年5月3日 

 

   
噛む脳
1.咀嚼ポンプ

歯は歯根膜という薄いクッッションを介在して骨の中に植わっているわけですが、食べ物をお口に入れて自分の歯で強く噛んだ場合、歯は約30ミクロン沈下します。このとき歯根膜中の血管はポンピング作用で血液を送り出します。また内側翼突筋、外側翼突筋や側頭筋などの咀嚼筋群の間には大きな網状構造をした翼突筋静脈叢(Plexus pterygoideus)がありますが、噛む度に多くの血液を連絡する頭頚部の静脈系から還流させています。頭頚部の噛むための器官全体がいわゆる「咀嚼ポンプ」として血液やリンパ液の循環を促しています。


特別なフィジカルトレーニングを積んでいないふつうの成人の場合、心臓が1回の収縮で送り出す血液の量(1回拍出量)はおよそ70mlと言われます。
一説によれば、一回噛みしめれば脳の血液循環系におよそ3.5mlの血液が送り込まれ、脳の血液循環量は30%増えるそうです。歯根膜と翼突筋静脈叢が通常成人の1回拍出量の1/20にあたる量の血液を送り出しているとすると、まさに「咀嚼ポンプ」の名にふさわしいものと思われます。脳内の血液循環量が多くなれば、それだけ脳細胞に充分な酸素と栄養を与えることができ、脳の新陳代謝が高まることで脳の高次機能も向上します。

2.覚醒、学習・記憶、食事量抑制

また噛むことは脳全体の機能を賦活しています。噛みしめる度に歯根膜の感覚受容器(ルフィニ神経終末など)や咀嚼筋の筋紡錘から莫大な情報が三叉神経と視床を介して大脳皮質感覚野と扁桃体に流れ込みます。舌、口腔粘膜、喉からの触覚、味覚、温熱覚などを含めた咀嚼・嚥下感覚情報量は脳が外部から受け取る感覚情報量の実に半分程度を占めているのではないかと言われています。


柔らかい食べ物だけで飼育したラットと固い餌で育てたラットでは、良く噛む生活をしたラットのほうが明らかに迷路実験等の記憶力が向上しているそうです。

人間とラットを同じに扱うわけにはいきませんが、噛みしめる歯のない高齢者と高齢でもしっかり噛みしめる歯を持っている方とでは、脳血管性痴呆になるリスクが違うだけでなく、最近の研究によれば歯を失えばアルツハイマー型痴呆にもかかりやすくなるという指摘がされています。ライフスタイルにおいても噛みしめることのできる高齢者のほうが質の高い積極的な社会生活を送っていると言われています。

味覚・触覚・歯根膜や筋紡錘からの口腔内固有感覚情報の一方は三叉神経感覚枝を経由し、三叉神経中脳路感覚核(Me5)で中継され、三叉神経中脳路運動核(Mo5)から咀嚼筋へ伝えられ、単シナプス反射である下顎張反射により咀嚼の速度を調節しています。感覚情報は同時に三叉神経中脳路感覚核(Me5)から後部視床下部の結節乳頭核(TMN:tuberomammillary nucleus )に細胞体のあるヒスタミン神経系に伝わり、神経ヒスタミンを産生させます。ヒスタミン神経系は脳の全域に連絡し、興奮性の作用としては学習や記憶の増強、覚醒水準の維持、自発運動量の増加、痛み受容の増強に関わり、抑制性の作用としては満腹中枢に作用して満腹感を形成し食事量の調節などに関与しています。



3.頭蓋骨・咀嚼系の骨代謝亢進

生物の身体には使われない器官は廃用萎縮する性質がありますが、病気のために寝たきり状態を長期間余儀なく強いられると、頭蓋骨の厚みが次第に薄くなり、頭全体の重量が急速に失われていくことが知られています。これは骨には張力が加わったときにピエゾ電流という弱い電流が流れ、このときに骨の新陳代謝が活性化し、新しい骨ができる性質があるからです。つまり噛むことにより咀嚼筋が収縮し、付着している頭蓋骨や下顎骨がひっぱられる度に骨が強化されています。良く咬めることが脳の機能も脳を保護する容器も守っていることが分かります。

4.脳における食べる機能

ヒトの大脳皮質を電気刺激し、運動野や体性感覚野と体の部位との対応関係をまとめると、体性感覚野では親指や唇、舌、歯からの感覚情報を担当する部位が大きな面積を占めています。
運動野では飲み込む、唾液分泌、噛む機能を担当する部位が大きく、脳においては文明を築く原動力となった指と食べるために大切な器官である口や喉を担当する脳の部位に広い面積が割り当てられています。

5.生きるために食べるのか?食べるために生きるのか?

脳と連結する末梢神経である脳神経は12対ありますが、そのうちの6対が食べ物を噛んだり味わう機能に関係しています。
また残り6対の脳神経や手足を動かす脊髄神経も食べ物である獲物を眼で見て探し、追いかけて捕食する機能に関係することを考えれば、ある意味で動物の身体は食べるための装置であるとも言えます。
食べるということは生物にとってその存在すべてに関わる根源的な出発点であるとも考えられます。



参考文献:「咬み合せの科学」、「日本歯科医師会雑誌」、「睡眠環境学」鳥居鎮夫編、「カーペンター 神経解剖学」、
「インプラントの咬合」保母須弥也著、「メルクマニュアル日本語版」等

 
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