80「ブラキシズムという怪物」
本文へジャンプ 6月3日 
  
       80「ブラキシズムという怪物」

 

(歯髄が露出するほど咬耗が進んだ下顎前歯)

私達の脳の中には「ブラキシズムBruxism」という怪物が潜んでいます。ふだんは冬眠しているかのように意識の奥底に身を潜めていますが、何かのきっかけで脳の抑制が外れると、この執拗で凶暴な力を持った怪物が暴れだし、容赦なく私達の身体とその機能を破壊しようとします。

ブラキシズムは就寝中または日中の強い歯ぎしりや噛みしめの悪習癖のことで、歯の異常な咬耗の原因、歯が破折する原因、歯周病を重症化する原因、顎関節症と呼ばれる頭頚部の筋肉や顎関節周囲組織の病気の原因、奥歯の修復物が脱落する原因になります。

精緻な治療を注意深く行っても、強いブラキシズムがコントロールできない患者さんの歯列や咬み合わせは思いがけない壊れ方をしていきます。



(強い睡眠中の歯ぎしりを持っている患者さんの右下第二大臼歯の歯根破折)
インプラント治療を行った後に、一番の強敵は頑固なブラキシズムであり、外科手術に成功し、咬み合わせの原則を守り、理想的と思われる設計の冠やブリッジをかぶせても、強いブラキシズムがあれば、数週間から数ヶ月あるいは数年で上部構造物が破損するか、インプラント周囲の骨吸収がおき、インプラント周囲炎を起こします。

ブラキシズムは異常機能活動(パラファンクション)とも呼ばれますが、正常な機能活動(オルソファンクション)でない関節や筋肉の運動であり、グラインディング(tooth-grinding)、クレンチング(tooth-clenching)、ナッシング(tooth-gnashing)の形で現れます。

グラインディングは碾き臼のように顎を水平方向に摺り合わせる歯ぎしりで、クレンチングは噛みしめです。ナッシングも歯ぎしりの意味ですが、顎を側方にずらしてきしませるような噛みしめを指します。

ナッシングですが、『The Son of Man will send out his angels, and they will weed out of his kingdom everything that causes sin and all who do evil. They will throw them into the fiery furnace, where there will be weeping and gnashing of teeth. 人の 子はその御使いたちを遣わします。 彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から 取り集めて、火の 燃える爐(いろり)に投げこみます。 彼らは爐のなかで泣きわめいて 歯ぎしりするのです。』(マタイによる福音書)とありますから、ナッシング(gnashing)はただ歯ぎしりをするというより、身もだえをしながら歯噛みをするというような強い意味があるものと思われます。

○ 50〜80%の人がブラキサー(Bruxer:歯ぎしりの習癖を持っている人)である。

初診の患者さんに「歯ぎしりをしている自覚がありますか?あるいは誰かから歯ぎしりをしていると言われたことがありますか?」または「精密な作業をしているときや、ストレスを感じているときに強く噛みしめていることに気がついたことがありますか?」と聞いても、90%程度の方は歯ぎしりや噛みしめの自覚を持っていません。

実はブラキシズムはめずらしい現象ではないのですが、その保有率は報告により、成人では5〜96%、小児では7〜88%と大きな開きがあります。これは実際にはかなりの割合でブラキシズム(パラファンクション)を行なっているのに、その正確な診断法が普及していないために、あるいは最初からブラキシズムを念頭に置いた診断システムを採用していないために見逃されているケースがとても多いことを意味しています。

「一般的には、半数以上の人がブラキシズムを持っている。」(←「TMDを知る-最新顎関節症治療の実際-」Charles McNeill監修 Greg Goddard、和嶋浩一、井川雅子著)とされています。

さらにTMD(顎関節症)患者さんの50〜80%がブラキシズムの習癖を持っていると言われ、これに日中の喰いしばりを加えると顎関節症の患者さんの大多数はブラキサーであると言われています。

実は就寝中の歯ぎしりの80〜95%は音のしない歯ぎしりであり、歯冠の半分が磨り減るような激しい歯ぎしりをしていても、まったく自覚がない人のほうが多いのが現状です。
 
あくまでもブラキシズムがあるかどうかは、歯の咬耗や歯茎のエナメル質のクサビ状欠損、起床時の後頚部や耳の周囲の疲労感、骨の膨隆、診断用スプリント上に刻み込まれる歯ぎしり痕、頬の内側の粘膜や舌の側縁の圧迫痕、歯冠・歯根の破壊や破折、知覚過敏症、咀嚼筋や僧帽筋などの圧痛などから推定します。

○ ブラキシズムの破壊力

正常にものを噛むとき、その力は10数kg/p2くらいに制御されていますが、くいしばりや歯ぎしりを行なうときには、70〜80kg/p2の力が加わるとされています。

また一日のうち、実際に歯が接触している時間は20分程度ですが、ブラキシズムでは2〜162分/日接触していたという報告があります。

加えて歯ぎしりの大半や噛みしめは、顎をずらして行われるため、歯を押し倒すような力が加わりやすくなります。

正常時には噛む力の大きさは身体を壊さない範囲に制御されていますが、ブラキシズム時には保護反射が働かないまま、考えられないような強い力で長時間、歯と顎に側方力が加わるために、歯の破折や充填物の脱落、冠やインプラント上部構造物の破損、顎関節周囲組織へのダメージが起こりやすくなります。

特に睡眠時、REM(Rapid Eye Movement)睡眠と呼ばれている急速に眼球が動き、比較的早いθ波という脳波が観察される睡眠相で行なわれるブラキシズムは破壊的に作用します。

成人の睡眠はステージ1、ステージ2、ステージ3、ステージ4、REM睡眠を一つのサイクルとして90分くらいの間隔で繰り返しますが、脳が擬似覚醒していて眼筋以外の身体が寝ている状態であるREM睡眠から、次のステージ1に移るときに、多くブラキシズムが観察されます。

REM睡眠中に起された人は見ていた夢を覚えていると言われ、夢はREM睡眠中に見ているのではと考えられます。通常REM睡眠中は全身の骨格筋は弛緩した状態で筋活動は低下しています。

寝言や夢遊病など、REM睡眠中に筋活動が表れることがありますが、REM睡眠行動障害と呼ばれる状態では、何らかの原因でREM睡眠中の筋肉の抑制が失われ、見ている夢に応じた行動がそのまま表れてしまうのではないかと言われています。

REM睡眠行動障害の大半は原因不明ですが、基礎疾患として脳幹部の脳腫瘍、パーキンソン病、オリーブ橋小脳萎縮症、レヴィー小体性認知症などが挙げられています。

推測ですが、睡眠中のブラキシズムがREM睡眠行動障害のひとつである可能性があるものと思われます。もともと睡眠中のブラキシズムは情動器官である咀嚼系を活動させることにより、攻撃衝動を発散し、脳がストレスにより破壊されることを防ぐという説もあり、日中のストレスがブラキシズムの要因になるとも言われていますが、明確なエビデンスは得られていません。

○ 昼間のブラキシズム

昼間のブラキシズムはクレンチング(くいしばり)ですが、睡眠中のブラキシズムと違い、持続時間が長いのが特徴です。そのため比較的小さな力のくいしばりでも顎関節に及ぼす影響は大きいとされ、最大咬合力の10%程度の力で30分間クレンチングをさせるとふつうの人の17%、緊張型頭痛患者の69%に頭痛が生じるという報告があります。(←Olsen)

 昼間のブラキシズムは意識下で行なわれる習癖ですので、「唇を閉じ、奥歯を離し、顔の力を抜く」という呪文を唱えることで回避できます。つまり噛みしめないように常にリラックスして奥歯が離れているように注意すれば、ある程度改善できるわけです。

○ ブラキシズムへの対策
歯周病やむし歯で歯が失われることは周知されていますが、実は歯を失う隠れた大きな原因はブラキシズムであり、歯科治療が長期間安定して再発を防止できるかどうかはブラキシズムをいかにコントロールできるかどうかにかかっています。

 冠やブリッジの設計を注意し、前歯に適切な接触関係(アンテリアルガイダンス)を与えることによりブラキシズムから歯列を保護する手法だけでは、ブラキシズムの凶暴な破壊力から身を守ることはできません。

 強固な白金加金も簡単に引きちぎり、ポーセレンをも破折させ、生きている大臼歯も破折させてしまう自己破壊の力は圧倒的で、臨床経験を積んだ歯科医師なら誰しもがその脅威を感じています。

 現在のところ、夜間歯列に装着するスリープスプリントや日中、強い噛みしめの筋活動を抑制する目的で使われるNTI-tssデバイス、顎関節症呪文、自己暗示法などしか対処する術がありません。咬み合わせの調整だけではなかなかその破壊力を制御することは困難です。

 脳機能からのより根源的な研究が進まない限り、ブラキシズム克服の道は険しく遠いことが実感されます。

参考文献:「TMDを知る-最新顎関節症治療の実際-」Charles McNeill監修 Greg Goddard、和嶋浩一、井川雅子著