bU7 「エンパワーメントとアドボカシー」 次の医療を探る
本文へジャンプ 5月5日 
 

 ある時代の医療はその時代の構造に規定されます。

 ある医療モデルが成功を収めれば、次々とそれに追従する者が現れ、やがてそのモデルは徐々に平準化し、そのモデルに慣れ親しんだ時代の要求はさらに次の地平に向かって方向を変えていきます。

 最近、注目されるようになった言葉としてエンパワーメント(empowerment)とアドボカシー(advocacy)があります。

 エンパワーメントは「権利を付与する」「能力をつける」という意味が辞書に載っています。医療においては、患者さんが自分の病気そのものや治療法、医療機関の情報、医療費、保険制度など、病気の自分を取り囲む適切な客観情報を提供され、それらをよく理解した上で、主体的に自分の病気について取り組む能力や権利を付与されることを意味します。

 OECD(経済協力開発機構)は各国の医療制度を、公平性(equity)、効率性(efficiency)、有効性(effectiveness)、エンパワーメント(empowerment)の4点のバランスから評価していますが、日本の医療について、公平性と有効性については高い評価を下しています。

 効率性については、マクロ的には先進国中、最も低い対GDP比(7〜8%)での高い平均余命の達成などの点で評価できるものの、個別的な分野の効率性については問題があるという指摘もあります。

 さらに患者さんがエビデンスのある必要な医療情報を獲得し、主体的に医療機関や治療法を選ぶ能力や権利を与えるエンパワーメントについては改善すべき点が多いとされています。

 自分がある目標を達成する能力を持っているという感覚や自信を自己効力感(self-efficacy belief)と呼びますが、自尊心や自己肯定感を持ち、自分自身で自分の人生や病気への対処法を統御している感覚を持ち、内発的に自分の病気に立ち向かうか共存していこうという意欲を持つことが、治療結果に対してプラスの影響を与えます。

 2007年11月に、清郷伸人さんは腎臓がんの治療のために行っていたインターフェロン療法と保険外の「活性化自己リンパ球移入療法」との併用について、混合診療であるとして禁止した国に対して一人で行政訴訟を起こし、「保険を適用するかどうかは個別の診療行為ごとに判断すべきで、自由診療と併用したからといって本来保険が使える診療の分まで自己負担になるという解釈はできない」と、国の法解釈の誤りを指摘し、混合診療禁止に法的根拠はないとする判決を勝ち取りました。このような自己の病気に対する治療法の決定権を確保するばかりでなく、必要な社会的な条件を整えるために、社会構造そのものに影響を与えようとする行動をアドボカシーと呼びます。

 アドボカシーとは別に行政訴訟を行なうことだけを意味するのではなく、もともとは(主義や人などを)擁護すること、支持、弁護、唱道などを意味しています。医療やマーケッティングの領域ではかなり広範な多義性を持ち、様々な場面で使われる現代を読み解くキーワードのひとつになっています。

 成書によれば、従来型のマーケッティングは伝統的なプッシュ・プル戦略で行なわれてきたと説明しています。つまりプッシュ・プル戦略とはある商品を販売するに当たって、販売店に販売促進費などのインセンティブを与えたり、広告、口コミ、人的販売(販売員によるセールス)などの強力なプロモーションをかけたりする手法を意味します。

 さらに総合的なマネジメントにより顧客との良好な関係を構築し、顧客満足度を最高にするために、接客、販売、サービスなどすべての面をシステム化し、プッシュ・プル戦略を一層効率的に推進する手法を「CRM(customer relationship management) 」と呼んでいます。

 一方、アドボカシーマーケッティングは、商品についてのすべての情報を利点も欠点も含めてすべて顧客に開示することにより、顧客にとって最も有益な商品選択ができる手助けを行なう方法です。その情報の中には自社にとって不利な情報も含めることが重要で、長期的な観点から顧客が生涯にわたって得られる価値を最大限にする手助けをすることにより、結果的に長期的な信頼関係を得ようとする戦略です。

昨年末から今年にかけて、いくつも食品関係の老舗や定番商品で様々な偽装や詐欺的な行為が曝露され、大きな社会的な話題になりました。

 一方、某企業は自社商品が関与して起きた死亡事故を即時に包み隠さず積極的にマスメディアへ開示し、早期の製品回収、徹底的な防止策と改善策の発表と実行、適正な補償を行なうことにより、かえって社会的な信頼と同社の他の製品に対するプラスの評価を得たケースもありました。(J&J社、マクニール社による「タイレノールによる死亡事故」に際する対応策など)

 歯科医療において、エンパワーメント(empowerment)とアドボカシー(advocacy)について、どのようなケースが考えられるでしょうか?

 歯科恐怖症や極端な多忙、口腔衛生に対する無知、誤解、思い込み、基礎疾患など様々な原因で、多数歯のむし歯、進行した歯周病、残された歯の動揺、病的移動、歯列の変形、回避的な顎運動などが組み合わされ、複雑な病態で極めて重症化した状態で来院される方がいまだにいらっしゃいます。

 このような場合、まずいきなりむし歯を詰めたり、入れ歯をつくったりすることはまったく意味のないことです。もちろん痛みや義歯の当たりなど当面患者さんを苦しめている自覚症状は救急的に取り除かなければなりませんが、このような進行した病気をそもそも数回の歯科診療室での治療で治せると思うこと自体がナンセンスなことです。

 あらゆる病気には原因があり、その中には、加齢や遺伝的な条件など改善できないものと、喫煙習慣や肥満など、改善できるものとがあります。

 改善できない要素に対してはその被害を最小にするように努力し、取り除ける病因は排除しなければなりません。喫煙など、長年慣れ親しんだ生活習慣を改善するには、強力な動機とその継続が必要ですが、モチベーションを行なう前に、まず患者さん自身に病気を治そうとする強い意志が必要になります。

 レントゲンで根尖病巣や重症な歯周病について説明しても、最終的に患者さんがその病気の脅威について理解できず、治療の必要性を感じなければ歯科医師は治療に積極的に関わることはできません。

 また例え、治療の必要性について理解できたとしても、数々ある治療法から最適の治療法を最終的に選択するのは患者さんでなければなりません。

 最近、学会で発表されたばかりの最新の治療法まで紹介すべきかどうか、自分の診療室でできない治療についてより適正な医療機関をどう紹介するかなどいくつかの課題をクリアしなければなりませんが、保険内診療と保険外の治療それぞれの利点と欠点、費用について説明するばかりでなく、放置しておく場合の病気の進行、治療後に起こりうる危険性、代替療法、患者さんが負わなければならない責任、医院の責任、保証システム、契約書など多岐にわたる内容について、理解できるまで説明しなければなりません。

 医療従事者と患者さんのもつ情報の非対象性を埋め、共通の認識を構築し、納得のいく選択と決定を行なってもらい、問題となる生活習慣の改善を支援するためには、従来の歯科医療の枠組みを越えた対応が必要になります。

 1966年以来、アメリカの大病院の多くは専任のアドボケーター(advocator:代理者・代弁者)やアドボケート室を常備する動きが常態化しているそうです。

 アドボケーターとしての一定の教育カリキュラムのもとで教育を受けた専門家が、医療機関とは独立した第三者的な立場でその患者さんの権利(Patients’ Bill of Rights)を守り、病院や医療チームと患者さんの間を調整し、患者さんに必要な医療情報を伝え、理解させ、医療側には患者さんのかかえる問題の何が重要なのかを理解させる役割を果しています。

 アドボケーティングにより、患者さんは治療法の持つ利点や欠点を十分に理解し、主体的に治療自体を受けるかどうかを決定し、経済的な意味も含めて自分にとって最適な治療法を選択し、医療者は患者さんのニーズによりよく応えることができるようになります。

 個人開業が主体の日本の歯科医療において、専任のアドボケーターを常備することはかなり困難ですが、もし実現できれば「次の歯科医療」への扉を開くことになると思われます。またアドボケーターを常備することが困難でも、歯科衛生士や医療秘書などがその役割を果すように教育し、医院のシステムを改良することはできます。

 患者さんを励まし、自分の病気や自分自身をコントロールする自信をもっていただき、自分で自分の健康を守るという意識を確立し、歯科治療の目的、治療目標、治療法などについて十分に理解した上で、治療方法を選択してもらい、自分で自分の健康を主体的に守れるように誘導・支援します。
また歯科医療従事者側は患者さんの本当のニーズを正確に捉え、必要ならば患者さんにとって最良の医療機関を紹介し、患者さんのニーズに適切に対応することが益々必要とされる時代になっています。

 できれば奥さんとの間に専任のadvocatorを設置したいなどと不謹慎なことを考えている人はいませんか?

 やはり平和な家庭をつくる責任はあくまで自分で負わなければなりません。

 合掌。

 参考文献:「かしこくなる患者学」高柳和江・仙波純一著 放送大学教育振興会