タイトルイメージ 64 「大禍時」に歯が痛む 歯痛の時間医学
本文へジャンプ 4月30日 

 

   
「黄昏」は「誰そ彼」から派生した言葉だそうです。

あたりがだんだん暗くなり、そろそろ灯りが必要な時分になったとき、向こうからやってくる足音がひたひたと聞こえるが、顔はぼんやりと薄闇に溶け込んで分らない‥

「あなたは誰?」と問いかける頃を黄昏と言います。

昼間と夜の境目にある、山の端は残照に輝いているが、谷底や盆地の辻はもはや夜の闇が支配しつつあるこの一刻を、「逢魔が時」とも呼び、その意味は「大禍時」であり、人を惑わす災いや魔物に出会うときとされています。

日中、仕事に駈けずりまわり、疲れ果ててとぼとぼと家路を辿るとき、心の隙にこの世の魔物が忍び込み、魔界への入り口が扉を開いて待ち構えているわけです。

 毎晩、まっすぐに帰宅できないお父さんたちなら、この世に「逢魔が時」があることを実感されるていることでしょう。

 さて事故や病気の種類によって、起こりやすい時間や曜日があることが知られています。

例えば、突然死は月曜日と木曜日に多く、脳卒中や心筋梗塞は午前8時からお昼頃までに発症しやすいと言われています。

癌は成長ホルモンの分泌が多くなる深夜に発育するとされ、胃潰瘍は胃酸分泌の多くなる夜中に悪化しやすく、糖尿病は午前3時から4時ころに「暁現象」と呼ばれる血糖値の上昇が起こります。

心筋が攣縮(れんしゅく)する異型狭心症は深夜0時から早朝6時頃、動脈硬化の進行によりおこる労作性狭心症は午前6時から12時に発症しやすくなります。

喘息発作は午前4時頃にピークがありますが、女性の場合は月経後か月経後に喘息発作が起こりやすくなるそうです。(従って喘息の既往のある女性の抜歯をするには、月経前後を避け、午後に行なうほうが発作を避けやすくなります。)

出産は早朝に多く(病院では昼間12時頃がピークですが)、人が亡くなるのは深夜に集中して起こります。

これらは人間の身体が、25時間周期のサーカディアンリズムに従って生理活動が周期的な変化を繰り返しているためと言われ、哺乳類においては概ね、視床下部の視交差上核(suprachiasmatic nucleus; SCN)に存在する体内時計が自律神経の活動リズムを刻んでいます。

さて数日前から奥歯にかすかに疼くような自覚症状があったのに、忙しさにまぎれて、そのうちに歯科医院へ行こうと思っていた場合に、突然、夜中に激痛が起こり、一睡もできなくなることがよくあります。

これは昼間、他の感覚にマスクされていた歯痛が、深夜に疼痛閾値(脳で感じることのできる痛みの強さの下限値)が下がり水面の上に浮上し、痛みの悪循環が起こるからだと思われていますが、本当の理由は分っていません。

だいたい午前3時から4時頃に歯痛が猛烈に激しくなって眠れなくなることが多く、一年に一回程度、どうしてもやまない歯痛に苦しむ患者さんにたたき起こされることがあります。

この時間帯は当然、歯科医師も深睡眠に落ち込んでいる時間帯のわけで、突然の電話に起されると、それだけで心拍は不規則に波打ち、血圧は急上昇し、身体にも心にも過大な負担が加わります。

「今朝一番で東京に出張しなければならないからどうしても痛みを止めてほしい」などと強い調子で言われると、もうすっかり眠気が覚めてしまい、いつまでたっても電話を切ってくれないために、仕方なく深夜に診察することがあります。

たいてい、このような場合に限って、深い金属の土台が詰まっている根の先端に根尖病巣があることが多く、一時間以上もかかって悪戦苦闘して根管を開放することになります。
あるいはすれちがい咬合による外傷や大型のブリッジの支台歯の歯根破折など、どういうわけか深夜の急患は、一筋縄ではうまくいかないような疾患が多い特徴があります。

昔から歯科医師の寿命は一般人よりも短いとされていますが、深夜の急患が続けば短くもなるでしょう。

一度、真夜中に強い集中力を必要とする根の治療など行うと、もう朝まで眠れなくなってしまい、翌日、一日診療の調子が悪く、他の患者さんにも迷惑をかけてしまいます。

歯の痛みは、昼間たいしたことがなくても、夜中に突然痛くなる性質をもっていますので、あまり放置することなく、早めに歯科医院を訪れて、お互いに健やかな睡眠を確保しようではありませんか?

歯痛にとっての「大禍時」は午前3時から4時頃です。最近は都会では24時間営業している歯科医院が登場していますが、深夜勤務の看護婦さんや製造業、各種サービス業の患者さんには確かに便利かもしれません。

しかし人間の生理的なリズムに反した深夜の診療行為は、それだけ患者さんへのリスクが高くなり、日中と同じ安全性や精度が確保できません。歯周病治療など長期間の計画的な治療が必要な疾患への対応もむつかしくなります。応急処置の繰り返しや主訴だけのその場限りの治療に陥りやすく、本当の意味で患者さんの健康を支えることが困難になり、環境への負荷も大きくなります。

また例え交代制であっても、患者さん自身や医療スタッフの通院に際してのセキュリティーの問題も生まれます。

加えて何か突発的な事故が起こったときに高次医療機関との連携も昼間と同じようにはできません。

昔、銀座には昼間は歯科医院で、夜はカウンターバーに変わる診療所があると聞いたことがありますが、ただ次々と繰り出される新奇の医療ニーズに対応するだけでなく、社会への影響も考えて、天道に沿った医療を行うことも本来的な意味で大切だと思われますが、どうでしょうか?

参考文献:「病気にならないための時間医学」<生体時計の神秘>を科学する 大塚邦明 著 ミシマ社