59 「私は乾く」ドライマウスに苦しむ その2
本文へジャンプ 4月26日 
 

 症例1:2年ほど前の暮れのある日、20代後半の美しいお嬢さんが診療室を訪れました。物静かで清楚な感じのその患者さんは、都心にある某政府系の財団で秘書をされているそうですが、事情があって数ヶ月前より実家に帰省されているそうです。その年の秋ごろから口の中が乾き、歯肉の不快感と歯の汚れが気になるようになったとのことでした。

 夏ごろから朝起きると、耳の前に痛みがあり、しばらくすると楽になるということで、就寝中の強い噛みしめも疑われました。最近、上下の前歯の歯並びが乱れてきたことも気にされていました。

 お口の中の状態を見せていただくと、確かに通常より潤いが少ないような気がします。唇はひび割れ、一部ですが上皮が欠損した糜爛状態を示し、舌は紅舌で厚い白膩苔に覆われた状態でした。また大臼歯部舌側を中心に多くの歯が歯茎のむし歯(図1)に罹患しており、ドライアイ(※1)の症状も認められ、口腔乾燥症(※2)を疑わせる状態でした。鼻閉は認められません。


 図1:広範なエナメル質の脱灰

安静時唾液(※3)は10分間で0.2ml(正常値lml/10分以上)、刺激唾液(ガムテスト※4)は4.8ml/10分間(正常値10ml/10分間以上)で、唾液分泌能力の低下を強く示唆していました。

唾液のPH(※5)は4.5(正常値pH6.7〜7.5 )で、かなり強い酸性を示していました。また唾液緩衝能(※6)もハイリスクを示していました。

既往歴としては、前年の春頃に強いうつ傾向が現れ、心療内科に半年ほど通院された既往があり、現在は完治されているそうですが、睡眠障害が残っています。

両肩の強い肩こりと頭痛(目の奥の痛み)、顎関節雑音、強い歯ぎしりと噛みしめの自覚があり、筋肉の触診を行なうと、圧痛指数が12(正常値0〜2)でした。

咬み合わせは歯の大きさに比べ、顎骨の大きさがわずかに小さいことにより、軽度の叢生(※7)を起しており、下顎の奥歯はやや内側に倒れ、前歯よりも奥歯に咬み合わせのストレスが集中してかかり、顎関節や咀嚼筋に強い負担が加わっていました。(図2)


図2:臼歯部早期接触と咬頭干渉




骨格はいわゆる弥生タイプで、気道が狭窄しやすい傾向があり、脊椎の湾曲(※8)はほぼありませんが、頭位はやや右側に傾いていました。

初診時の仮の診断としては、
1. 持続的な交感神経の緊張傾向と汎適応症候群(※9)
2. 唾液分泌障害→歯肉の保護作用の低下
3. 睡眠障害
4. 口腔内自浄性の低下→唾液PH低下、むし歯菌の増加⇒多発性のむし歯 
5. 全般的なエナメル質の脱灰
6. ブラッシング外傷
7. 大臼歯の舌側傾斜と前歯叢生の進行
8. DCS dental compression syndrome(※10)
以上を疑いました。

治療経過ですが、まず患者さんに仮の診断について、説明を行なった後、数種のストレス免疫療法を試していただくとともに、唾液腺マッサージを励行していただきました。

1. 歯垢染色剤を用いたプラークコントロール
2. フッ化物による洗口習慣
3. 唾液腺マッサージ
4. 臼歯部咬頭干渉の除去と犬歯誘導の付与
5. むし歯・歯周病治療
6. ストレス免疫訓練(マインドフルネス瞑想法など)
7. 朝、夕の唾液腺マッサージ

一ヵ月後、安静時の唾液分泌量は0.7ml/10分になり、本人もやや口の中の乾き感が改善したと仰っていましたが、まだ不十分な状態でした。

 患者さんの同意が得られたため、この時点で松本歯科大学の口腔乾燥外来へ紹介しました。

 口腔乾燥外来は、各種の原因で起こる唾液分泌障害を専門に治療する高次医療機関であり、特に松本歯科大学口腔乾燥外来は漢方薬を併用したドライマウス治療に定評があります。
 数ヶ月後、再び当院を訪れた患者さんは、安静時唾液量が0.9ml/10分に改善し、保湿剤を使用すれば、ほぼむし歯予防が可能な状態が現在まで続いています。

 関西医科大学第2生理学教授 玄番 央恵先生によれば、「唾液は心の鏡」 だそうです。

気分が自律神経を介して、唾液分泌や発汗や心拍をコントロールしています。一般に心にエネルギーがあるとき唾液分泌は盛んで、心が疲れてくると唾液の分泌は低下します。

1. 集中できる、感動した、腹が立つ、逃走したい⇒唾液分泌亢進++
2. リラックスできる、ほっとした⇒唾液分泌亢進++
3. 悲しい、不安、ストレス、憂鬱、疲れた⇒唾液分泌抑制−
4. 無関心(半覚醒状態)⇒唾液分泌抑制−−

 このケースのように、心の状態は歯科疾患に大きく係わっています。

 口腔乾燥症の原因でストレスの他に多いものは、薬物の副作用ですが、それについては次回お話することにしましょう。


※1 ドライアイ:涙の分泌量が少ないか蒸散量が多いために、目の表面が乾く病気。
※2 口腔乾燥症:ドライマウス。ゼロストミア(Xerostomia)とも言います。
※3 安静時唾液:椅子に座り、音楽や会話などの一切の刺激のない状態で分泌される唾液。通常粘稠性の唾液が中心で、10分間に1cc以下だと異常値。
※4 刺激唾液:専用のガムを噛みながら出した唾液。10分間10cc以上が正常。
※5 唾液のPH 正常値PH 6.7〜7.5。口腔内細菌が増えると低くなります。ちなみにエナメル質はPH5.5以下、象牙質はPH6.3以下で脱灰すると言われています。
胃酸のPHは1〜1.9前後、白ワインPHは2.30、赤ワインPHは2.63、コーラ2.94ですから、お休み前にナイトキャップとしてワインを嗜まれる習慣のある方は、むし歯に対する注意を怠ってはいけません。
※6 唾液緩衝能:唾液のPHを一定に保つ能力。主に唾液に含まれる重炭酸塩の機能によります。
※7 叢生:歯並びが重なっている状態。歯の生えるスペースが不足している場合、上顎の中に下顎が押し込まれル場合、舌でいつも強く押している場合、歯周病の進行により支持している歯槽骨が少なくなった場合、あるいはこれらの原因が複合して起こります。
※8 脊椎の湾曲:患者さんに前かがみになってもらい、両側の肩甲骨の棘突起の高さが異なるかどうかで判断します。
※9 汎適応症候群:ストレスに曝されたときに、ストレスに反応して自分を守ろうとして起こる生理的な反応。血圧上昇、心拍数増加、筋緊張、血糖値上昇、免疫力低下など。この状態が長く続くと副腎は疲弊し、心身は取り返しのつかないダメージを蒙ります。
※10Dental Compression Syndromeとは

Dental Compression Syndrome (DCS)とは強い歯ぎしりと噛みしめにより引き起こされる様々なダメージの集積を意味します。

例えば、反対車線から急に飛び込んでくる大型トラックが目の前に迫るとき、ドライバーはそれまでの人生で出会ったことのないような強烈なストレスにさらされます。全身の筋肉を極限まで緊張させる防御反射の結果、自らの筋力で自分の肋骨を折ってしまうことがあります。

DCSはある意味で、正面衝突をするファミリーカーのドライバーと同じようなところがあります。人生の様々な強烈なストレスは就寝中も我々に緊張状態を強制するため、なかなか平穏な眠りが訪れません。断片化する睡眠における微小覚醒に伴い、交感神経系をすり減らした日中の反動のため、攻撃衝動を激しい歯ぎしりや噛みしめで発散しようとします。その結果、制御できない強い力が歯と歯列、顎口腔系へ加わり、自らの身体に対し破壊的に作用します。

Gene McCoy博士によれば、人口の約90%がDental Compression Syndromeの症状を持っているにもかかわらず、実際にその有病性を自覚している人は一般成人では5〜10%にすぎません。

これはDCSが徐々に身体に負荷がかかる慢性疾患であり、その自覚症状も加齢や各種基礎疾患やストレスに伴う随伴症状として捉えられている場合が多いためと思われます。

参考文献:「最新内科学」中山書店