№122「見果てぬ夢(the impossible dream)」
ストマトロジスト(stomatologist)への遥かなる道
本文へジャンプ 10月30日 
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      №122「見果てぬ夢(the impossible dream)」ストマトロジスト(stomatologist)への遥かなる道



Richard Kiley - Impossible Dream

舞台「ラマンチャの男」は(Man of La Mancha) はセルバンテスの小説『ドン・キホーテ』をもとにしたミュージカル作品ですが、カトリック教会を冒涜した疑いで投獄された劇作家ミゲルデ・セルバンテスは獄中で、盗賊や人殺しなど囚人たちにより身ぐるみはがされそうになります。

セルバンテスは所持している脚本を守るために、「ドン・キホーテ」の物語を牢獄内で演じ、囚人たちを即興劇に巻き込んでいきます。

このときドン・キホーテが歌うのが「見果てぬ夢」(The Impossible Dream)です。

To dream the impossible dream   夢はとうてい実現しないが
To fight the unbeatable foe     強力な敵と闘うために
To bear with unbearable sorrow   胸に耐えがたい悲しみを秘めて
To run where the brave dare not go  勇みて我は挑まん

  ストマトロジー(stomatology)とは、別にストマック、つまり胃を専門に診る治療学ではありません。

日本語では口腔医学と訳されていますが、口腔疾患の診断と治療にかかわる医療の一分野(the branch of medicine concerned with the diagnosis and treatment of diseases of the mouth.)です。ここでふつうdiseasesと言えば、癌や肉腫、重症感染症、自己免疫疾患、先天異常などのかなり重い病気のイメージであり、風邪や歯痛などはふつうdiseasesに該当しません。

ストマトロジスト(stomatologist)とはストマトロジーに携わる専門家を指します。先日、長野市で開催された「長野県矯正研究会50周年記念大会」でも、来賓の先生が「歯科医師はただ抜歯し、穴をうがち、それを詰めることを繰り返すdentistではなく、全身の一部分症としての口腔疾患を診るstomatologistとして診断、治療にあたるべき」と医科・歯科一元論についてお話されていました。

しかし、もともと世界のどこの国でも、歯科医師(dentist)は医師とは別枠の、一種の大道芸人や入れ歯師の類として捉えられてきました。一昔前のアジア諸国では、道端で布の上に並べられた誰のものとも分らない義歯の中から、自分の顎に合いそうなものを繰り返し口の中に入れて購入していく姿が見られたと聞き及びます。

14世紀ごろのヨーロッパでは、街から街へ歯磨き粉を売り歩き、抜歯を行なう「歯抜き師」が活躍していたそうです。

日本でも室町時代から江戸時代にかけて入れ歯専門の「口中入れ歯師」なる職業と、ある程度の医学教育を受けて抜歯や口腔内疾患を治療した「口中医」(幕府医官)あるいは「口歯医」がいたと言われています。

明治維新後、1987年(明治7年)に「医制」が発布され医師になるには医術開業試験に合格する必要が生まれました。翌年、1988年(明治8年)小幡英乃介(おばたえいのすけ)が第一回医術開業試験の「歯科」に合格し「歯科を専攻する医師」として「歯科医師」が誕生しました。大正時代までは「歯科医師」と従来の「口中医」(入歯抜歯口中治療営業者)が共存していました。

小幡英乃介は豊前国中津(現・大分県中津市)出身で、十五歳の時、大砲方に加わって長州戦争に参加した人物で、慶応義塾で学び、横浜で開業していた米国人歯科医師セント・ジョージ・エリオットから西洋式の最新歯科技術と知識を学び、東京で開業しました。その後、郷里に帰り歯科医師の養成に尽力しました。

1906年、法律48号により歯科医師法が制定され、1942年、大戦中の医療体制確立のために、医師法と合わさって国民医療法となりましたが、戦後GHQの指導により、医療制度が医科と歯科に分離するまで、基本的に日本では歯科は医科の中の一分野であったわけで、ドイツに規範を求めた医科歯科一元体制でありました。

しかし敗戦後、昭和23年にアメリカに範をとる形で、法律第201号医師法、昭和23年法律第202号歯科医師法が制定され、医科と歯科は分離したため、両者はまったく別の職業になりました。

アメリカにおける歯科医師の社会的地位は思ったよりも低いようで、思い出すのが「マラソンマン」の中に出てくる元ナチス親衛隊である歯科医師、クリスチャン・ゼル博士(ローレンス・オリヴィエ)が、ダスティン・ホフマンがキャストされた主人公ベーブの健全歯を電気ドリルで切削し拷問するシーンです。

脱出したベーブがハドソン川の河畔を痛む歯をスースー吸いながら、逃走する場面が記憶に残っています。この種のdentistを蔑み、その人格や社会的イメージを破壊するようなコンテンツは枚挙に暇がなく、繰り返し歯科医師のネガティブイメージが社会に刷り込まれています。

日本の歯科医療制度は、戦前から現代までのアメリカにおける歯科医師の社会的な地位をそのまま反映したもので、徐々に再評価が進んできたものの、いまだに「正式な医師でない二級医療者」という評価は変わっていません。

一般社会のイメージは「歯医者は歯を抜くか、削るか、詰めているだけの」職業ですから、歯周病や顎関節症の治療のために、生活習慣を指導したり、他科の基礎疾患の状態や投薬内容の影響を調べたり、歯周外科手術などの抜歯以外の術を行なう必要を説いても納得しない方が少なからずいらっしゃいます。

しかし口腔も全身の一部であり、患者さんの生活習慣や既往歴を詳しくお聞きしているうちに歯科診療室で全身の病気を疑い、医科に紹介することがしばしばあります。

例えば、先日、右下小臼歯にかぶせた冠が破折して来院された54歳の男性ですが、常用薬の中に抗うつ剤のパキシルが含まれていました。お聞きすると朝方に、特に頭が重く、全身が抜けるような倦怠感が続き、日中もぼうっとした感じが続き、内科から処方されているそうです。

詳しく聞いてみると、患者さんには両肩の軽度の肩こり、後頚部の頭痛、重度のいびき、夜半に必ずトイレに行くために目が覚める症状があり、お口の中には冠の破折、右下犬歯の歯肉退縮と動揺など就寝中の強い噛みしめや歯ぎしりを示唆する兆候が認められました。

これらはすべて睡眠時無呼吸症候群(sleep apnea syndrome:SAS )を疑わせる症状です。

睡眠時無呼吸症候群(sleep apnea syndrome:SAS、深い睡眠時に舌根がのどに落ち込み、気道を塞ぐ病気)と歯科疾患の関係は深く、睡眠時無呼吸症候群では睡眠中の激しい歯ぎしりや噛みしめが起きるという報告があります。

事実、診療室では重症のいびき症の患者さんの冠や充填物(インレーなどの詰め物)がしばしば破損・脱落し、患者さんの歯冠や歯根さえも割れてしまう例にしばしば遭遇します。

上記の54歳の患者さんの場合、中枢性または肥満などの理由で、深い睡眠に入ろうとすると舌根(舌の付け根)がのど深くに落ち込み、一時的な窒息を起すために、肺がしぼみ、胸郭が陰圧になっているものと推定されます。胸郭の圧力が下がると心臓の心房が膨らみ、心房の心房性ナトリウム利尿ホルモン顆粒から利尿ホルモンが血液中に放出されます。このホルモンは腎臓の尿細管に作用し、腎尿細管からのNa+再吸収を抑制し、水分の排出を促し、血管を拡張させ、副腎皮質からのアルドステロン分泌(Na+再吸収の経路を、活性化させるホルモン)を低下させて血圧を下げます。

その結果、夜間に膀胱に尿が溜まり、睡眠が浅くなり、トイレに行くために目覚めることになります。

このように睡眠時無呼吸症候群の患者さんは、日本人男性の場合10%以上いるのではないかと推測されていますが、高血圧症や心臓の病気、脳血管障害などと合併することが多く、睡眠時無呼吸症候群と診断された患者さんの10年後の死亡率は50%程度ではないかとする報告もある恐ろしい病気であり、早期発見、早期治療がたいせつな病気です。

歯科診療室では、咬み合わせの治療やむし歯多発傾向の改善、歯周病治療のために、患者さんの生活習慣を行動変容させる必要があるために、かなり詳しく既往歴や投薬状態、生活習慣をお聞きすることがあります。

そのためある意味、隠された病気をスクリーニングする機会が多く、糖尿病や骨粗鬆症などを疑い、内科へ紹介することがしばしばあります。

この患者さんの場合も、すぐに呼吸器内科へ紹介しましたが、詳しい検査の結果、中枢性の睡眠時無呼吸症候群と分り、現在治療を受けられています。

歯科疾患を治療するにあたり、全身的な視点からいつも考えることも重要ですが、歯科診療室が患者さんの隠された重大な病気のスクリーニングとしての機能を果すことも大切な役割になっています。

2002年1月10日、市立札幌病院救命救急センターで研修を受けた歯科医師3名と同センター部長である医師が医師法第17条違反で起訴された事件がありました。

事件は、歯科医師免許取得後2年間の歯科口腔外科の研修及び最低でも4ヶ月の麻酔科研修を受けた後、歯科口腔外科医として全身疾患を持つ歯科患者の急変に対応できる技術習得のため、市立札幌病院救命救急センターの研修中に起きたもので、上級医師の指示・指導のもとで気管内挿管、静脈路確保、右大腿静脈からのカテーテル抜去、腹部の触診などを行わせたことが医師法第17条に違反するとされました。

裁判官は、「そこで行われる個々の具体的行為の実質的危険性の有無及び程度にかかわらず、医師と歯科医師の資格を峻別する法体系下では許されない。」として歯科医師が充分な教育を受け、能力があっても医科の医療行為を行ってはならないと判断しました。

しかし高齢者や基礎疾患を持っている患者さんがあたりまえになった通常の歯科診療室内でも、歯科小手術に際して、安全な歯科医療を行うために、循環動態のモニタリングを行い、静脈確保することは常態化しており、特にインプラントの手術や止血処置に際しては必須のものになっています。

また嘔吐反射、嚥下反射機能の衰えた高齢者では、お口の中の異物を反射的に何でも飲み込んでしまう方がいらっしゃいます。誤って気管支を塞いでしまう場合を考えれば、救命救急士にも許可されている気管内挿管技術を歯科医師に認めない現状は甚だしく歯科医療の必要性を誤解したものと言えると思います。

現代の歯科臨床は、江戸時代の「入れ歯師」とは異なり、全身を対象とする一般医学の知識がなくては適切な診断も治療も行えなくなっています。

私達歯科医師は日頃から一般医学の研鑽に努め、自らの資質を高めることにより、いつか社会から医学の中の歯科としての役割を理解される日を待つ「見果てぬ夢(the impossible dream)」を追い求めています。