2011年12月30日更新
     149 舌を噛むとき 



 …あなたの噛んだ小指が痛い…と歌ったのは伊東ゆかり。

 「小指の思い出」が150万枚を売り上げたのは1967年。
第三次中東戦争でイスラエルが圧勝した年でもありましたが、自分にとって衝撃的だったのは、松本深志高校の西穂独標での落雷事故でした。
死者11名、生徒と引率された先生の13名が重軽傷を負った凄惨な事故で、事故に遭遇された方々は私よりは4年ほど上級の先輩にあたります。
後年、独標に登る度に、ここで先輩たちが遭難されたのだなと合掌した覚えがあります。

西穂独標

 患者さんが舌や頬を噛むと訴えて来院されたときに、まず考えなければならないことはその原因です。
ふつうは歯や詰め物、義歯の突起や段差、粗造な面などが原因になり、その調整を行います。
鋭い咬頭を丸めて滑沢化し、段差は丁寧に磨き、調整で対応できないときはインレーやアンレーをつくりなおします。
また上下の歯列の咬み合わせが適正なオーバージェット(庇(ひさし)のふかさ)がない場合(バッドジョイントbutt joint:二つの面が毛抜きのように面と面で接触するために誤咬しやすい)も、頬がうまく逃げないために噛みやすく、ひどい場合は血腫を形成することがあります。
このような場合、上顎の頬側咬頭の内斜面か下顎の歯冠外斜面を削合してオーバージェットを大きくしてやるか、矯正治療により上顎歯列弓を広げてやります。


          臼歯部交叉咬合                  上顎歯列弓の拡大中

一週間後

血腫を形成した場合、ふつうはそのまま放置しても良好な経過を辿りますが、必ず誤咬の原因を取り除くことが大切です。
大概の咬傷はこれで治るのですが、調整を繰り返しても誤咬を繰り返すときは以下の3つの原因を鑑別する必要が生じます。

1.唾液の分泌不足 唾液の重要な機能のひとつは潤滑作用であり、唾液中に含まれるムコ多糖類が組織の表面の摩擦による損傷を防いでいます。抗鬱剤や入眠剤、抗ヒスタミン剤、ステロイドホルモンなどは抗コリン作用があり、唾液の分泌量が少なくなります。睡眠不足やストレスも唾液分泌量を減らし、口の中が擦れるために痛みや不快感が表れますし、頬や舌を噛みやすくなります。この場合、生活習慣やストレス強度、睡眠状態、常用薬の副作用をチェックする必要があります。

2.弄舌癖(tongue thrusting) いったん、歯の間などにできる小さな溝が気になりだすと、いつも舌で舐めまわさないと気が済まない方がいらっしゃいます。神経質な方によく認められるのですが、うつ病や強迫神経症の治療を受けられている方によく認められる症状です。治療はむつかしく、弄舌癖防止用の 
マウスピースを使う場合もありますが、なかなかうまくいきません。筋機能療法と呼ばれる舌の動きのトレーニングが奏功する場合もありますが、頑固な場合は認知療法や抗不安薬、抗うつ薬、抑肝散などの
漢方薬による治療を心療内科や精神科と連携して行う場合があります。

3.微小脳梗塞 ある本によれば、40代は4人に1人、50代は3人に1人、60代は半分の人が微小(隠れ) 脳梗塞だそうです。本人は元気で自覚症状はないのですが、「無症候性脳梗塞」や「一過性脳虚血発作」と呼ばれる状態になっていることがあります。

嚥下や咀嚼時に舌や頬の筋肉と下顎の協調運動は、脳幹と上位中枢により調節されているわけですが、この部分のどこかに小さな脳梗塞が起きると、舌がスムーズに動かなくなり誤咬してしまいます。

食べ物が口の中に入ると舌が食塊を歯列の上に乗せ、頬筋や口輪筋を収縮させて食べ物を歯列の上に留め、下顎が楕円型、卵型などその人固有のパターンで開閉運動して咀嚼を行います。
ちょうど餅を臼と杵で搗く様にして食べ物を噛み砕くので、もし餅を返す返し手と杵を打ち込む搗き手の息が合わなければ、餅の替りに返し手を搗いてしまいます。これが微小脳梗塞による誤咬の正体だと思われます。

頬筋や口輪筋は顔面神経核の運動ニューロンにより支配されています。
咬筋・側頭筋・内側翼突筋・外側翼突筋の4大咀嚼筋と顎舌骨筋と顎二腹筋前腹は三叉神経運動核と三叉神経脊髄路核の運動ニューロンにより支配され、顎二腹筋後腹は副顔面神経核の運動ニューロンにより支配され、オトガイ舌骨筋と外舌筋と内舌筋は舌下神経核の運動ニューロンにより支配されています。

これらの咀嚼に関わる筋群の運動は、それぞれの神経核の運動ニューロンに中枢や末梢からの入力が加わることにより起こり、さらに各筋群の協調性が中枢性にコントロールされています。

三叉神経運動核と三叉神経脊髄路核はさらに上位の運動中枢により支配されていますが、その上位中枢としては大脳皮質(大脳皮質顔運動野、大脳皮質咀嚼野)、大脳基底核、扁桃体などを指します。
大脳皮質顔運動野は舌筋や頬筋、口輪筋の運動を制御するとともに、咀嚼筋が持続的に噛みしめるときの強さを制御しているものと考えられています。一方、大脳皮質咀嚼野は、下位脳幹で生まれるリズミカルな咀嚼運動の開始に関与し、 また歯肉や歯根膜、筋紡錘からの感覚情報に対応して咀嚼運動を円滑化させていると言われています。つまり食べ物の硬さや噛んだ時に受ける歯の圧力に対応して咀嚼運動のサイクルや強さをコントロールしているわけです。

咀嚼時には下顎運動に協調して舌もリズミカルに動き、開口時には開口と共に舌は前進し、開口相の途中から舌は後退します。
下顎と舌の協調運動は中枢内の神経機構によりコントロールされており、延髄の小細胞性網様体の運動ニューロンも関与しています。大脳基底核は個別の運動の準備や開始及び制御に関係し、扁桃体には、脳幹、視床、大脳皮質から様々な感覚情報が集まり、瞬間的にそれが自分にとって好ましいものか忌諱すべきものかを判断し、様々の情動行動を起こします。 咀嚼や吸啜、舐めることなどはこれらの情動行動の一部を占めています。

咀嚼に関する様々の反射機構や中枢性の制御機構のどこかに無症状性脳梗塞が起きると、舌や頬筋と下顎の運動の協調性が失われ誤咬の原因になるわけです。

微小脳梗塞を起こした場合の他にも、ドーパミン不足により発症するパーキンソン病では筋肉の緊張が亢進し強い噛みしめが起こりますし、大脳から出る伝導路のひとつである錐体外路が障害される、いわゆる錐体外路症状を起こした場合(錐体外路症状/パーキンソニズム)は下顎の不随意運動が起こります。

4.出血性素因( hemorrhagic diathesis ) 様々の原因で血管壁が弱くなったり、血液が固まりにくくなったりすると少しの摩擦で血腫ができやすくなります。

単に誤咬と言っても、背後に重大な基礎疾患が隠れている場合があり、歯科領域でもたえず全身的な観点から診断と治療方針を決定する心構えを忘れてはなりません。