bW8「昔の名前で出ています」自家歯牙移植の臨床
本文へジャンプ 6月19日 
 
 bW8「昔の名前で出ています」自家歯牙移植の臨床

  京都じゃ忍と呼ばれたの‥神戸じゃ渚と 名乗ったの‥♪

いささか歌詞が違いますが、歯科治療の技術には源氏名と同じように、流行廃りがあり、時代の寵児としてもて囃される治療法もあれば、過去の遺物として忘れ去られた歯科医療技術もあります。

インプラントが全盛の昨今、「自家歯牙移植」を臨床に応用する機会はすっかり少なくなってしまいました。

しかし昔の技術にも、症例を選ぶことにより捨てがたい味と利点があり、私のような古い人間はいまだに昔の引き出しをひっくり返して右往左往しているのが現状です。



 上図は「自家歯牙移植」の範疇に入るかどうか分りませんが、歯根の尖端に大きな歯根嚢胞などがある場合に用いられる「意図的再植法」の例です。

通常の根管治療を行っても、なかなか消滅させることがむつかしい歯根嚢胞と呼ばれる膿の袋を取り除くために、一度病巣を持つ歯を破折させないように慎重に抜歯し、嚢胞ごと、尖端の病巣を切断、除去し、切断面をスーパーボンドで被覆します。生理食塩水に浸したガーゼでそっと包んですばやく作業を行い、絶対に歯根膜に触らないように注意します。

顎骨内の歯根嚢胞を抜歯した穴から完全に掻爬した後に、そのまま抜歯窩へ戻し、一週間だけ隣の歯と接着剤で固定します。

固定が長すぎると歯根が骨に癒着する原因になりますので、強すぎる固定を行なってはいけません。通常の歯根端切除法に比べて、創面の仕上がりがきれいで、歯根尖端の処理を完全に行なえるのが利点です。約半年で骨の再生が完了し、予後も良好です。

このように自分の身体の組織を、血流が保たれている状態で別の組織に移植した場合、その組織は身体の別の場所に生着します。

16世紀にイタリアの形成外科医タリャコッツィ(Tagliacozzi)が開発した「イタリア式造鼻術」をご存知でしょうか?

これは戦争で鼻を吹き飛ばされた負傷兵の鼻を再建する技術ですが、上腕の一部の皮膚と筋肉(有茎皮弁)を剥がし、その尖端をまず失われた鼻の場所の上皮を剥がしてから、そこに縫いつけます。

腕の組織が顔面に生着し、血液循環が確保されたら上腕側との連絡を絶ち、形を整えれば新しい鼻のできあがりです。

患者さんは組織が生着する数週間の間、ずっと腕を顔にくっつけたままの姿勢で過ごすわけです。

 他人の組織の移植(同種移植(allotransplantation):人間の組織を用いる。)を行なっても、通常、短期間で脱落してしまいますが、他人の歯を洗浄、免疫処理し、凍結乾燥した後に、移植すれば数年程度は機能すると言われています。しかしやがて移植歯は歯根吸収を起こし脱落してしまいます。象牙質内の有機物が少ない高齢者の歯ほど成功率が高いと言われますが、感染の問題もあり、現在は行なわれていないと思われます。

レ・ミゼラブルの中で、ジャン・バルジャンが経営する工場に勤めていたファンティーヌは、娘コジェットの養育費に困窮し、売春婦に身を墜した挙げ句、自分の美しい前歯を流れの歯医者にナポレオン金貨と引き換えに売り渡します。

当時のフランスには、歯を失ったお金持ちが貧しい若者から歯を買い、移植する習慣があったようです。しかし移植された他人の歯は短期間で失われてしまうために、次々とまた別の若者の歯を移植するわけです。

その点、自分の組織を自分の身体の他の部分に移植する自家移植には、拒絶反応もなく、クロイツフェルド・ヤコブ病や肝炎などの感染の問題もありませんし、倫理的にも非難されることがありません。



インプラントに対する自家移植の最大のメリットは、歯根膜と歯根膜受容器が保存できるために、どのくらいの力で噛んでいるのか絶えず脳に伝えることができることです。

天然歯が参加する咬み合わせは自動的に噛む力がコントロールできますが、インプラントには歯根膜と言う感覚センサーがないために、噛む力はインプラントと咬み合っている相手の歯の歯根膜からの情報で制御するしかなく、上下がインプラントの場合は精密な噛む力のコントロールが失われる可能性があります。

例えば上下インプラント同士の咬み合わせの場合、間に砂粒が入っても脳が検知することはむつかしく、強すぎる力で咬んでしまいがちですが、天然歯なら食べ物の中に例え小さな砂粒が入っていてもそれを噛み砕くまで強く噛みしめる前に、噛む力をコントロールできます。

それまで咬み合わせの中心となっていた箇所の複数の歯が失われ、複数のインプラントで置き換えられた場合に、それまでより強いブラキシズム(歯ぎしり)が発現したケースを何例か経験したことがあります。

天然歯同士の咬み合わせは顎骨や顎関節に強すぎる力が加わることを防ぐことができます。

この他にも自家移植した歯は矯正治療により、自由にその向きや位置を移動することができますし、治療費用も安く、抜歯した同日に、その抜歯窩に智歯をドナーとして自家移植する場合は保険が効きます。

欠点は成功率が、患者さんの全身状態や生活習慣や術者の手技に大きく依存することで、40歳以上の喫煙者に対する自家移植の成功率は有意に低下します。
また歯周病などで歯根膜を失った歯の自家移植はできませんし、患者さんのお口の衛生状態が悪ければ失敗します。

適応症を選び、治療の成功率や欠点を患者さんが充分に納得した場合は、インプラントよりも役立つ場合があると考えています。

歯根の形が単純な健康な智歯があり、移植するべき顎骨に十分なスペースがあり、タバコを吸わない患者さんの理解が得られる場合で、移植に失敗したときに、適切な代替手段が決まっている場合は、インプラントよりも自家移植を第一選択肢に考えています。

「自家歯牙移植」や「意図的再植法」ももう一度再評価されてもよい医療技術だと思われます。

「昔の名前で出ている」あの人と昔話などするために、今夜は街に出かけましょうか?

参考文献:1.「植皮の歴史」倉田喜一郎著 克誠堂出版